2009年フィリピン編
オーストラリア滞在中。
悲しい記憶を思い出したくなかったのだけれど、エージェントの人から
「もし、今回の事がきっかけであちらの家族が離婚問題になった場合、あなたが訴えられる可能性がある。辛いと思うけど、警察に行きましょう」
と言われた。
ということで、私の人生初の警察体験はオーストラリアでした。
訴えられるかもしれない、という響き。
悪い事、してないのに私。という気持ちと、悪い事したんだ、私。という気持ち。
この場合の『悪い事をした私』というのは『私が存在している事が悪い事だ』というレベルの思考回路に達していた。
警察官の女性はとても親身に話を聞いてくれたのだけど、最後にこう言われた。
「これをあなたは訴訟しますか?訴訟する場合は、短くても1年・・長いと3〜5年かかる場合もあります。ボイスレコーダーなどの証拠がないので、あなたは被害者ですが不利です」
裁判に、5年。24歳まで、この問題をこの土地で引っ張る??絶対そりゃないわ。
「しません」と即答した。
あぁ、世の中ってこういう仕組みになっているんだ。泣き寝入りしてる人がたくさんいるんだろうなぁ。
後日、ホストファミリーは仲が悪くなるどころか、私の事件がきっかけで、私を悪者にして家族で一致団結しているという事を、エージェントの方伝いに聞いた。
そんな一致団結の仕方が、この世にあるのか!!!と私はまた全身を打たれたように衝撃を受けた。
色々綴りましたが、滞在中は楽しく、嬉しいこともたくさんあった。
世の中のことを知らなかった私には、海外でのすべての体験が刺激的だった。
これを書くにあたって、当時の日記を読み返したのだけれど、
『世界で一番自分のことが大嫌いだったけれど、ほんのすこしだけ好きになれた。それが一番嬉しかった。
今まで、ずっと自分のことを意気地なしでチキンで、結局は口だけで行動にうつせない人間だ、って思っていたけど、自分は自分が思っている以上にアクティブで度胸があるのかも。
ラフティングに行った時、高所恐怖症だったけれど、すごく高い崖の上から飛び降りて川にダイブした。そして、気付いた。全てはジェットコースターみたいなものなんだ。怖い怖い、どうしよう・・と、乗るか迷って躊躇している時間が一番怖い。やるんだ!と決めて飛び乗っちゃえば、あとはあっという間に、なるようになる。そして、気づけば、あれ・・?できたんだ!!私!ってなれるんだ。
やりたいことを、なんでもやっていく人生にしたい。やりたいことや夢が変わっていっても、叶えていきたい。これが、オーストラリアで見つけた、一番大切な私の夢。何歳になっても忘れたくない』
と書いてた。
え?私、世界で一番自分のこと嫌いだったの?!😂
すっかり忘れすぎていて、ビックリしてしまった!
そっかぁ、こんなこと思っていたんだなぁ、この瞬間は、全力で。
過ぎ去れば、別人の自分になるよね。笑
でも、この日記の気持ちとは裏腹に、帰国してからやり場のない怒りや悲しみが、ふつふつとわく瞬間もあった。
「フィリピンに、どうしても行かなきゃ!」と前は思っていたのに、フィリピンと聞くと寒気がする。行ったことのないフィリピンのことが、憎くてたまらない気持ちになる。男性にもできれば近寄りたくない。
こうなったら…絶対に誰にも負けない女性になってやる!と謎の強気モードを発揮した時期もあった。「千明ちゃん、なんか変わったね」と言われた時に「じゃあ、どうすればいいとよ!!」と家で一人で大泣きした。
当時の私…The⭐︎不器用の塊だな。
でも、ある時。はたと、
「たった一人のフィリピンの人のせいで、フィリピン全体を嫌いになるなんて、違うよね。次の夏休み、フィリピンに行こう。もう一回、ホームステイにチャレンジしよう。記憶が凝り固まる前に上書きする作戦だ!!死んでもフィリピン行かない、って思ったけど、これは逆に、フィリピンに行け・・というお告げな気がしてきた・・。」
と思った。葛藤の中でも、どうにか前に進みたかった。
ついでに言うと、武士気質の私は「こんなことされた、可哀想な子なんです。慰めて・・(;;)⭐︎」みたいな雰囲気になるのが、まじで嫌だった。悲劇のヒロインにはなりたくない。それだったら、ぶった斬って前に進むわ、嫌でも怖くても!という気持ちでしたね😂
そんなこんなで、大学2年生の夏休み、私はフィリピンのスモーキーマウンテン・貧困地区をめぐりながらホームステイをするというスタディーツアーに参加します。
その経験も、私の中でとても、とても大きく残っています。
スモーキーマウンテンで家庭訪問インタビューをさせてもらったときに、私はお父さんに
「最近一番、幸せだと感じたことはなんですか?」
と聞きました。すると、お父さんは
「一つ目に、家族が全員一緒に住めていること。フィリピンは、離れ離れになってしまうことが多いから。
二つ目に、家族みんなが健康であること。
三つ目に、家族の大黒柱である私が、働ける体を持っていること」
と答えてくれた。
その瞬間、当時の私はハンマーで頭をかち割られたような衝撃を受け、涙が止まらなくなった。
最近、幸せなこと。
その答えが、この3つ。
2番目に関しては、私たちから見るとひどい湿疹があり、咳をしていたため、到底健康な状態には見えなかった。
そのときの私は「人と人との違いって、誰から生まれて、どこの場所に育ったかという事がベースにあるんだろうな」と感じた。
自分がフィリピンに、スモーキーマウンテンに生まれていたら、ここに馴染むように育っていったんだろうな。この人が、私の家に生まれていたら、普通の日本人だったんだな。
うまく言えないけど…あなたは私なんだね、私はあなたなんだね。地球って、そうなっているんだろうなぁ、と感じた。
フィリピンでのツアーは3グループに別れて行動したのだけれど、私の班はとにかく皆個性が強烈に強かった。各々の意見をしっかり持っていた。ディスカッションは、すごい勢いで、とにかく濃くぶつかりあった。
ツアーリーダーの人は、何も言わずに笑顔で見守っていてくれたのだけれど、後日「あまりにも皆の個性が強すぎて、どうしようもなかった。自分がどうすればいいかもわからなくって、ただ見守る事しかできなかった」と言っていた。
私は、なんとかそんな班をまとめようとするものの、勿論無理だった。
「千明は考え方がまじで甘い」とバッサリと理路整然と斬られまくる。
とにかく言われたことを本気で受け止めて、それで自分の意見を言って、また投げかけられて、衝突して・・という人生で初めてのぶつかり合いをした。
そんなこんなのフィリピンでの体験やホームステイを通して、私の中のフィリピン嫌いの気持ちが成仏した。
「フィリピン人に嫌な事された!フィリピン人嫌い!」と、何か起こったときに、全体の目で見てしまう事は、戦争の種になるんだな。
「貧困が云々、戦争は嫌だ」って散々考えてきたけれど、私の中にある戦争の種に気付かされた。
個人個人として物事を見ていかないと、素晴らしい出会いや体験を逃していく事になる。そうなると、自分の人生、損しちゃうよなぁ。そんなことも思いました。
そして帰国後。今度は、貧困問題などを目にしたことによって、自身の罪の意識に再び苛まれることになります。
何も知らずに生きていたことに対する罪の意識。何も知らずにものを買って消費していた罪の意識。戦争時代に日本がしてきたことに対する罪の意識。
それを、何も知らない人への怒りへと変換してしまった時期もありました。
何も知らずにのうのうと暮らしている人がいることが、許せなかった。
自分自身のことも、許せなかった。
そうして、大学2年生の頃の私の顕在意識と潜在意識は、トゲトゲした罪&許せないパラダイスに突入していったのでした。
・・・なんか久しぶりに自分の過去の性質を思い出して思わず笑ってしまった😂
でも、こんな時期の自分がいたから、今の自分がいる。ありがとうね!と言いたくなります。
ただ、もちろんそんな生活をしていると苦しいし、しんどいし、嫌になってくる。
色々と悶々とした結果、
「本当の幸せってなんなんだろう?私は、今まで、わかりやすく言うとお給料が10万円の人より100万円の人の方が幸せ!て思ってた。でも、そんなもんじゃない気がする。よくわからないけど、次はインド。インドに呼ばれてる気がする。よし・・・インドに行こう!怖いけど・・怖いけど、行かなきゃいけない気がする!!」
と感じるようになります。
そして、大学2年生の終わりの春休み、20歳のとき。
私はバックパッカー一人旅で2か月ほどタイ・インド・バングラデシュ・台湾をまわることにしたのです。
そこで、私の人生観を大きく変えてくれる人と出会います。
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アルケミストという本の前兆のお話がとても印象に残っています。
前兆に従って、すすむということ。その前兆は、予感だったり虫の知らせだったり。神様が残してくれた前兆に気がついて、それを読んでいくこと。それが宝物を見つけることにつながる。
まじで私は前兆を読む事ができていたんだなぁ、て感じています。
徹くんと私を結びつけてくれた人は、フィリピンのツアーで同じ班だった、私に本気でぶつかってきてくれた男の子です。
私が社会人になり奈良県に転勤した際、彼が近くに住んでいて、よく遊ぶようになりました。
「俺の高校の同級生で、千明に似てる部分を持つやつがいるんだよなぁ。直接的に社会問題に取り組んだりは、していないんだけどさ。千明みたいに、面白い形で自分の道を突き進んで、周りにパワーを与えているというか。会ったら絶対、面白いことになると思う!是非会ってみてほしい!」
と言われて、徹くんに出会いました。
そのタイミングも絶好で、あの時に会わなかったら、こういう関係にはなっていなかったかもなぁ、と思っています。
お互い絶妙な成熟具合・発展途上具合だったというか・・・。
あの時、英語力を無視してオーストラリアに行かず、フィリピンに行っていたら…
徹くんを紹介してくれた男の子には、会えなかった。
オーストラリアで悲しい目にあっていなかったら、ホームステイのツアーに拘らずに違う形でフィリピンに行っていただろうな。
何だかんだで、結果オーライ。タダでは転ばない。自分無敵。と思っているのだけれど、きっと今の自分だったら、どの道を選んでいたとしても「まじで、これを選んで良かった・・!奇跡やったわぁ・・!私、前兆読む力があるなぁ」と言っている気がします。
でも、それが一番無敵だよね。
どんな選択をしても、自分で自分の選択に頷けばいいんだね。